Vic Gohのフォトアルバム Vol-41
ベルリン 1972年

2007年7月7日
郷 勝哉
このフォトアルバムは過去数十年間に撮り溜めた写真の中から、丁度古いアルバムをめくるように往時を思い出しながら選んだ写真回顧録です。山や湖、オーロラなど自然の風物が主になるはずでしたが、結果的に飛行機、鉄道、車など乗り物も多く出ました。このあたり、子供の頃好きになったものが染みついていて何かと顔を出すようです。今後もこの様なコンテンツで続くと思いますが、変わらずお付き合い頂ければ幸いです。なお、Windows の画面設定を800 x 600にすると写真を大きくして見ることができます。(2005-12-1)


<まえがき>
1972 年のベルリンと言っても、歴史的には特別な年ではありませんが、1945年5月のナチスドイツの降伏から27年、ベルリンの壁が壊れて東西ドイツが統合される1990年の18年前で、ソ連とアメリカの対立が激しかった東西冷戦の真っ最中でした。今から35年前の7月、当時ニューヨーク勤務だった私は、4チャンネルレコード方式のプロモーションの一環としてアメリカM社の主導でヨーロッパのオーディオメーカーを歴訪しました。 その一つがノイマン社で、今はスタジオマイクのトップメーカーとして知られていますが、LP時代はカッターヘッドとカッティングレースメーカーとしても有名でした。 このノイマンの本社が今と同様ベルリンにあったので、当時東ドイツの中の孤島だったベルリンにも足を伸ばしたと言うわけです。
「上の写真はドイツの首都ベルリンの象徴であるブランデンブルグ門で、屋上に映画ベンハーにも出てくる四頭立ての戦車を駈るローマ神話の勝利の女神像が見えます」



<西ドイツ検問所−ベルリンへの出口>
我々一行は西ドイツのハンブルグから車でベルリンに向ったのですが、この写真の料金所の様な施設は、ベルリンに向かう高速道路が東西ドイツの国境を横切る所にある、西ドイツ側の言わば出国検問所です。



<鏡張りの東ドイツ検問所>
西ドイツの検問所を出ると、今度はソ連占領下の東ドイツの検問所にさしかかります。施設の天井に、車の屋根に乗って密入国する者を見張る鏡が貼ってあるのが見えます。ここでパスポートをチェックされて初めてベルリンに通じるオートバーン(高速道路)を走れる仕組みです。

「西ベルリンは何故陸の孤島と呼ばれたか」
お忘れになった方もおられると思うので、ここで西ベルリンの立地環境を江ノ島を例にして説明します。
当時の西ベルリンは相模湾に浮かんだ江ノ島のようなもので、東ドイツという海に囲まれ、片瀬海岸に相当する西ドイツ国境からは150 km も離れた西ドイツの飛び地でした。従ってベルリンへは必ず東ドイツ領を横切らないと行けなかったわけで、交通手段としては 1)飛行機で東ドイツ領を飛び越え西ベルリン内の三つの飛行場のどれかに行く、2)東ドイツ領を通過するが途中停車は許されていないベルリン行き直通列車を利用する、3)片瀬海岸と江ノ島を繋ぐ「江ノ島桟橋」相当の高速道路(オートバーン)を通るという三つの手段に限られていました。
「領土と占領」
当時西ベルリンは領土としては西ドイツ領でしたが、返還前の沖縄同様、米、英、仏の連合軍の占領統治下にあり、一方東ドイツと東ベルリンはソ連の占領統治下にありその力に強く支配されていました。



<中間検問所>
脇道から紛れ込むかもしれない不審車をチェックするためなのか、 オートバーンの途中にも検問所がありご覧の通り渋滞しました。



<監視塔>
ベルリンに向かう高速道路の両脇はソ連占領下の東ドイツで、このような監視塔で見張られ、我々外国人はレストエリア以外に脇道に逸れることは許されませんでした。



<タンクの戦勝記念碑>
西ベルリンに入る高速道路最後の東ドイツ検問所脇に、このような実物のタンクを使った記念碑がありました。デュッセルドルフ駐在員を経験した方はこのタンクに見覚えがあるかもしれません。壁面の文字がドイツ語の上、車の窓越しに急いで撮ったので、どういう記念碑かよく解らなかったのですが、今回改めて調べた結果、ベルリンに最初に突入したソ連戦車(T34)の一台だったと解りました。この記念碑には面白い後日談があり、1990年代初めにソ連軍が引き上げる時このタンクは一緒に持ち去ったのですが、その後誰かがタンクの代わりにピンク色に塗った建設用重機を載せたそうです。それが今でも宇宙からグーグルアースで見えるとあったので早速試したところ辛うじてそれらしき姿が見えました。



<繁栄を見せつける西ベルリン>
当時の西ベルリンは、自由主義経済圏の繁栄を東に誇示するためのショーウインドーの役目を果たしていて、建築物から通行人の服装まで近代的華やかさが目立っていました。35年前の日本はまだここまで復興していなかった様に思います。



<Checkpoint Charlie-1>
当時東西ベルリンを隔てる壁に設けられた検問所の中で、外国人(非ドイツ人)が通過出来る唯一の検問所として有名になったチャーリー検問所。
屋根の上にはALLIED CHECKPOINT の文字と当時西ベルリンを占領統治していた西側連合軍 (Allied Forces) である米、仏、英のマークがある標識が立っています。
この道路の突き当たりが東ベルリンに通じる門で、赤白の遮断機の左に東ドイツ側の監視塔が見えます。
余談ですが現在この検問所の建物は記念物として別のところに保存され、この場所には観光用の複製が置いてあるそうです。



<Checkpoint Charlie-2>
向かい側の事務所?で、私達だけでなくこども達まで双眼鏡で東ベルリン側の様子をのぞき見していました。



<ベルリンの壁-1>
西ベルリン側から見た壁で、 左手には壁越しに東側を見物する台があり、右手の標識には「ここから先はアメリカ統治圏外」とあり、東ドイツとの国境であることを示しています。(壁は正確には国境の真上ではなく、東ドイツが自国領すなわち国境の内側に建設したものです)



<ベルリンの壁-2>
見物台から壁越しに見た東ベルリン領で、監視塔の右には車の強行突破を阻止するバリケードやソ連の軍用車両、パトロール中のオートバイなどが見えます。



<ベルリンの壁-3>
イギリス統治圏にある壁で、 標識は「警告: 英国統治圏の終端、これより先に進むことを禁ず」とあります。



<ポツダム広場の壁>
手前の階段はかっての地下鉄入口で、壁の向こうには爆撃で廃墟になったままのビルが見えます。なお壁には円筒状の屋根?がありますが、アスベストパイプだそうで、1989年の撤去後今頃になってその瓦礫の処分のされ方が公害問題になっているそうです。



<ブランデンブルグ門付近の壁>
左の街灯の近くに監視塔があり、壁の手前には保安上の無人地帯が設けられています。



<壁の向こうのブランデンブルグ門>
門は東ベルリン内にあり反対側が正面でパリ広場に面しています。



<カイザー ウイルヘルム 記念教会>
ベルリンのシンボルの一つで、塔の頂上はかなり高いとんがり帽子の丸屋根だったのですが、ご覧の通り爆撃で大部分が吹き飛び外壁の一部だけを残しています。(あだ名は空洞の虫歯とか)
教会はこの塔を戦跡としてそのまま残し、隣りにご覧の様な近代建築の教会を建てました。ところで私の「おでこ」はこの頃(42歳)既に広かったです ハイ

「東ベルリン観光」
当時は観光バスで東ベルリンの限られた場所だけ観光が可能でした。バスは我々外国人が壁の通過を許されている唯一の関門であるCheckpoint Charlie を通り東ベルリン側に入るのですが、先の写真の 遮断機を通過するとバスが停められ、乗り込んで来たソ連の衛兵に乗客全員のパスポートを集められ、顔写真と比べるため一人一人じっと睨まれた時はかなり不気味で緊張しました。(言うまでもなく、日本とソ連との国交は無かったので、日本のパスポートは本人証明以外に何の効力もなく、ここでスパイと疑われて拘束されても誰も助けてくれない身分でした)この検問が済むとバスは強行突破阻止用のジグザグバリケードを通り抜け、やっと観光らしい気分になりました。



<東ベルリン風景-1>
西ベルリンがその繁栄を見せつけるのに対し、東も「俺たちはそれほど貧乏ではないぞ」と見せたかった様で、バスルートにはこんな立派な?集合住宅地もありました。ここだけは当時の日本より一寸立派だった様に思います。



<東ベルリン風景-2>
バスはある程度戦禍を免れた昔からの著名な建築物を回りました。これは Zeughouse (武器博物館) です。



<東ベルリン風景-3>
Berliner Dom (ベルリン大聖堂) と呼ばれるドイツ最大のプロテスタント教会です。一見戦禍を免れているように見えますが、左右の塔の屋根が一見衛星用パラボラアンテナの様に見えるのも、その上にあった丸屋根が失われているからで、中央のドームもオリジナルの物ではありません。この日は休日だった思いますが、西に比べて人通りがずっと少ないのも気になりました。



<東ベルリン風景-4>
Neue Wasche (訳名:新衛兵所) “新”と言っても帝政ドイツ時代の19世紀初めの建築でその後1931年に戦没者慰霊場として改築、現在は政府の中央追悼施設として使われているそうです。柱の間に銃を持った衛兵らしい姿が辛うじて見えます。



<東ベルリン風景-5>
この時は我々が乗って来た観光バスを撮ったつもりでしたが、道路の向かい側に爆撃で半壊したビルが写っていました。窓だけ修理して使っていた様です。この写真には写っていませんが、川を隔てて手前が今は世界遺産のMuseumsinsel (博物館が集まっている島)の旧博物館で、ここだけ中を見せてくれたように思います



<西側の平和と繁栄-1>
空爆跡が生々しく残り、何となく元気が無い東から西ベルリンに戻ると文字通り別世界で、人々が日々の生活をエンジョイしているのが印象的でした。写真の場所は Drei Barren レストランです。



<西側の平和と繁栄-2>
Drei Barren レストランから通りを見下ろすと、露天商あり、歩道に席を設けたレストランあり大勢の人でにぎわっていました。しかしあれもこれも、住人も観光客もその生活を支えている生命線は西ドイツに繋がっている3本の鉄道と3本の道路、及び空路だけという厳しい現実が裏にあったわけです。



<西側の平和と繁栄-3>
動物園の公園では、何も知らない子供達が無邪気に遊んでいました。



<西側の平和と繁栄-4>
子供達の世界は平和その物でした。


<あとがき- 壁とベルリン封鎖事件>
ベルリンの壁と言うと、一般にはベルリンを南北に縦断し東西ベルリンに分離する壁として認識されていますが、目的は西ベルリンを囲んでいる東ドイツ領から西ベルリンに脱出する人達を阻止するためだったので、実際は西ベルリン全部を取り巻いた環状の壁で、南北の壁はその1部でした。東を占領したソ連は中に残った西ベルリンが邪魔で仕方がなく、何とか米英仏連合軍を追い出し、西ベルリンをソ連支配下に置こうと嫌がらせを始めたのが戦後間もない1948年6月から始まった西ベルリンの封鎖です。

そのため物資の補給路である鉄道と道路は使えなくなり、使えるのは空路だけになりました。この封鎖に対抗し、西側は「明け渡してなるものぞ」とその意地にかけ、大型輸送機を総動員し24時間体制でミルクから石炭まで生活物資を飛行機で運びベルリン市民の生活を支えました。これは「ベルリンの空の橋」と呼ばれ、3分ごとのフライトで毎日5,000トンも運び、ソ連が封鎖をあきらめて解除する1949年5月までに何と総計230万トンもの物資が運ばれたと言われます。

私がベルリンに行ったとき、この封鎖は20年以上前の過去の話でしたが壁は厳然と存在していた訳です。この壁について私が全く想像してなくてショックだったのは、ベルリン市の地下を東西に走る電気、ガス、水道、電話などのインフラを全く無視して占領境界を設定したため、どちらのサイドも何か止めようとすれば自分の区域の供給も止まってしまうため、暗黙の了解で敵?の領分まで止めずに供給していた事実です。仮に東京環状線の内側が(ベルリンはそれより遙かに広いが)中央線に沿って南北に隔離され互いに別の国になり、北から南に行くにはパスポートを見せなければ通れず、南から北へは許可無しに通ると銃で撃たれる、という状況を考えて見ると如何にとんでもないことか解るでしょう。

撮影データ
撮影時期:1972年7月
撮影場所:東ドイツ、東西ベルリン
カメラ : HONEYWELL PENTAX SP500, レンズ: スーパータクマー 55 mm

以上
 
  Photographs copyrighted (2003〜2007, Vic Goh)  
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