このページは2021年〜2023年にお亡くなりになった方々への追悼のページです。 ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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佐々木弘忠さんは昭和35年にビクターに入社されました。故人になられましたが山田雄三さん、山村方人さんなどと同期です。
入社後はしばらくアンサンブルステレオなどの設計に携わられ「永遠のステレオ」アンサンブルP、STL-661の前身STL-660を開発されました。 その後マイクロコンポーネント103シリーズの開発などを担当され、業界の注目を集めました。 以後1984年開発機器部長としてビクター初のHDDドライブの商品化を担当されました。1990年からオーディオ事業部長や 特機事業本部長などを歴任され、1995年技術開発本部長に就任されました。 最終的には専務取締役に就かれ、活躍されました。
その後相模原の自宅で過ごされていましたが、前立腺癌におかされ、そのまま回復されることなく、令和5年7月10日86歳でご逝去されました。
山村方人さんは編集士が昭和40年にビクターステレオに入社して初めての上司で当時のステレオ技術主任を されており大変お世話になった方です。当時皆さんから「ほうじん」と呼ばれていました。まさか「まさひと」と読める方は 少なったと思います。
山村さんは天体に興味を持たれており自宅の庭に「塔」を建てその上に天体望遠鏡を設置し、夜な夜な 眺めておられました。
リタイヤー後もつい先日まで、お元気でバイクでの買い物などをなさっておられたそうですが、 令和4年11月12日にお風呂に入られた際に家族に気付かれることもなく「心筋梗塞」を起こされ帰らぬ人になってしまわれました。
享年85歳でした
故人は写真を投稿されておられました。
田中駿一さんは編集士と同期入社でした。配属は「スピーカ」技術(名称不確)で、 大型ステレオ関係のスピーカの設計に当たっておられました。 そして業界初の球形スピーカ「GB-1」の耐久性向上の設計にもかかわっておられました。 性格的には非常に穏やかで口数の少ない男前の人で、女子社員からは当時ラジオで有名だった司会者「ロイジェームス」と噂されていたそうで人気がありました。 趣味は今でいう「乗り鉄」「カメラ」「模型」など多才でした。そして令和2年に和歌山に移住し 現在に至りましたが、令和4年1月ころから摂食障害で入院されていたそうで、令和5年2月4日容体が急変し帰らぬ人になられたそうです。 享年80歳でした。
林正道さんは昭和34年にスピーカ係に配属されましが、その数年後デルモニコ社に約2年間駐在されました。
帰国後は大和工場スピーカー室長に就任され、1972年に不朽の名作「SX-3」の開発リーダーとして 日本初のソフトドームスピーカやクルトミューラー社のコーン紙を導入するなど斬新な技術を採用し、大ヒットに繋げました。
一方個人的には実家の事業を継承されるなどの環境変化はありましたが、音楽への憧憬は尽きることなく、ホルンやコントラバス の演奏などを楽しまれました。
令和4年6月13日膀胱癌で永眠されました。
享年86歳でした。
小須田幸夫さんは昭和41年海外営業部に途中入社され、5年後CD-4のプレゼンのため音研の井上専務に同行し 欧州AESへ出張し、そのままそれから15年間欧州駐在としてドイツに駐在されました。当時4チャンネル競争が激しい時で、当社の 「ディスクリート方式」と他社の「マトリックス方式」の主導権争いの真っ最中で、小須田さんはCD-4の味方作りに奮闘され EMIの会長の賛同を得るまでになりましたが、ソフトのないのが最大の悩みでした。小須田さんは欧州の有名カンパニーの会長や 社長とも昵懇になり、個人秘書と仲良くなるのがコツとのことですが、「コスーダー」の愛称で呼ばれるほどの人脈を作りました。 この時の人脈つくりや、ソフトの重要性を認識した上で後のVHS,VHDの欧州展開に成功し、VHSを世界標準に導いた影の功労者と言われました。 1997年退社されましたが、去る令和4年2月享年81歳で永眠されました。 ここに当時の活躍の様子が記された 貴重な文書"をご覧ください。
相原正義さんは昭和44年に入社され、幅広い業務に携わられましたが、中でも 「ロボットコンポ」などをはじめ、一時期 ステレオ商品開発全般を担当され、多くのヒット商品を開発されました。
退任後は趣味のクラリネット演奏 サックス演奏などを楽しむサークルを元海外営業の”Hさん””Sさん”とともに ”ASH”というサークルを結成されておられました。
その模様はこちらです。 更に円空仏像彫刻等にも興味をお持ちで、教室を開き指導などもしておられました。

令和3年10月30日肺癌で永眠されました。
享年74歳でした。
金指久司さんは昭和40年入社され、主に輸出レシーバーモデルの設計を担当されました。
その際も「設計の合理化」を目指し 「標準シャーシー」の構想の下、モデル開発の標準化で合理的な設計を推進されました。

またプライベートにおいては、特徴的なタッチの 「油絵」を得意とされ、我が杉の会にも沢山の投稿をしていただきました。その一例をご覧ください。


令和3年6月12日肺癌で永眠されました。
享年79歳でした。
定藤常蔵さんは昭和33年入社、輸出技術課に長年勤務され、輸出モデルの拡売の為、 1962年2月よりデルモニコ社に技術駐在員として勤務され、輸出モデルの開発〜販売ルートの確立に貢献されました。 そして1980年台にはJVCアメリカ技術担当役員として活躍されました。 そのため同じデルモニコ社駐在を経験された萩原さんや、山田さん、畑尾さん、郷さん、林さんなどと帰国後も親交があったそうです。

そして令和3年4月永眠されました。
享年90歳でした。
榊 哲朗さんは途中入社年月不明ですが
モジュラー技術課勤務で卓上ステレオの設計をされ、 昭和49年のモジュラー事業部発足に伴い横浜工場勤務になり、そこで3in1ミュージックセンター の商品化をされました。その後昭和52年大和工場にてミニコンの前身となる商品の設計を担当されました。 最終職歴は1999年11月までビデオ事業部応用技術勤務でした。 その後長年闘病生活を余儀なくされ頑張ってこられました。

そして令和3年5月26日に永眠されました。
享年81歳でした。


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