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和歌山の散歩路(その3)「紀三井寺(さくら)」


尾崎 英明

 和歌山の散歩路で今回は紀伊国の「紀三井寺」(正式には「護国院金剛宝寺」)に歩くことと致します。自宅から歩いて約1時間のところです。ウオーキングとしてはちょっときついので、あまりこちらに脚は向かないのですが、さくら見を兼ねてゆっくりハイキングのような感じで行くことにしました。



 自宅から国道42号線に出て正面に「名草山」を見ながらただただ歩きます。名草山はあちこちさくら色で塗染められ、その中腹に紀三井寺が見えます。紀三井寺交差点をまっすぐ進みますとすぐ紀三井寺の入り口です。

 観光地にはおきまりのお土産の商店街を通り、表坂231段の石段にさしかかります。この石段にエピソードがあり、看板に書かれている話では「紀国屋文左衛門」が若いころ母親をおんぶして、紀三井寺の観音様にお詣りした際、途中でぞうりの鼻緒が切れて困っていると、玉津島神社(和歌浦にある)の宮司娘カヨが通りかかり鼻緒をすげ替えてあげた。この縁で二人は結ばれ、後、宮司からの出資金でみかん船を仕立て大儲けをした。」とあります。この由来により、この表坂は「結縁坂」と呼ばれるようになったそうです。紀州弁で言いますと、「ええ嫁はんもうたなア」となるのですが、これ、親孝行と信心あっての事なのだそうです。

桜門

 紀三井寺は約1230年余り前に唐の僧為光(いこう)上人が本尊十一面観世音を安置したのが始まりで、現在も西国三十三ケ所の第二礼所として、人気のある霊場となっています。和歌山にはこのほかに礼所が2ケ所あり、那智の「青岸渡寺」が第一礼所、粉河町にある「粉河寺」が第三礼所です。近畿(歴代皇居のあった所)と和歌山(あわせて西国)の当時観音菩薩が祭られていた三十三ケ所を、関東など東方から見て巡礼しやすい順番に配したものが「西国三十三ケ所」のようです。四国の八十八ケ所も大変有名な巡礼コースであり、巡礼バスツアーなども利用して、礼所めぐりが行われています。

 全国に同様の「何々何ケ所」というのがあるようです。若い頃悪行ばかりやっていて歳をとってしまい、極楽に行く為にこれから善行をしても、到底間に合わない。
仕方なく、礼所めぐりをやって、手っ取り早い方法で極楽行きのキップを手にしようと言うことでしょうか。当時は歩いて巡礼をしましたので、相応のご利益があったかもしれませんが、現在はバスや車で一瞬にして、三十三ケ所や八十八ケ所を巡るわけですから果たしてその効果はどんなものであろうか、と考えるのですが、そもそも巡礼とは、あまりクドクド考えないで実行するのがよろしいのです。

 さてこの坂を登り始めます。最初の21段をのぼると、櫻門です。櫻門は室町末期1509年に建てられたとあります。約500年を経て、戦災にも遭わず今日に至っています。修理は何回か施されてはいるものの、かなりボロボロで特に両脇の金剛力士像はかわいそうになる位に傷んでいます。ここで入山料50円を払います。名草山に建てられていますので拝観料ではなく入山料となるのでしょう。もっと値上げして修理代にまわしては?と思うのですが。

和歌浦湾を望む

 さらに46段登りますと、和歌浦湾を展望することが出来ます。今日は生憎天気が悪くてハッキリとしませんが、それでも桜を添えた和歌浦湾は絵になります。

 ここには松尾芭蕉の句碑があり、「見上ぐれば 櫻しもうて 紀三井寺」と看板にあります。句碑は200年ぐらい経っているのか、ほとんど消えてしまっています。
芭蕉年譜をみると、奥の細道に旅立つ前年の春、吉野を経て紀三井寺にはいっていますので、遅咲きの吉野の櫻をみて何日か後に早咲きの紀三井寺の櫻を見たのではもう散ってしまっていたのだろうと思います。しかし散ったさくらをみて、句になるのですから、やはり俳聖ならではと言うことでしょう。

芭蕉句碑

 ここは表坂ですが、裏の坂にも芭蕉の句があり「宗祇にも めぐり逢いけり おそ桜」 とあります。芭蕉は連歌師の宗祇を師匠のように慕っていたようですが、紀三井寺の裏の坂に宗祇の庵があったのか、そこで逢って感激して句をつくったようです。
歴史的に芭蕉をみると、ごく真面目な俳聖というイメージですが、これは若い頃に教えられた芭蕉で、私はあまり興味がなかったのですが、今回紀三井寺の関係で調べてみますと、芭蕉の俳句以外の人間像がいろいろで浮かんで来て興味津々。これからも更に芭蕉関連の本を読んでみたいと思います。

三井水
 
 この階と次の石段24段を登った所に2ケ所の湧泉「清浄水」「楊柳水」があります。もう一箇所「吉祥水」は裏坂の近くにあり、これら3つの湧泉があることから「三井寺」となり、同じ三井寺が近江国の第十四番礼所にもあるので区別するために、紀伊国の「紀三井寺」としたそうです。日本百名水の一つに選ばれているようですが、今は生で飲めず、必ず沸かして飲んでください、とあります。名水が泣いているようです。

 次は「女坂厄除」32段(実際には33段)です。これから更に「男坂厄除」42段(実際には43段)、「還暦厄除」60段(実際には61段)と続きます。
石段を数えながら登っても最後まで数えられるものではありません。メモしをしておいてあとで合計するのですが、231段と言われる石段は実際には228段しかありませんでした。どうなっているのでしょうか。
 
 231段と言われている石段を登りきり、紀三井寺の「本堂」に着きます。ここには国宝級の建造物が多数あり、本堂の他に「六角堂」、「鐘楼」、「多宝塔」、などがあります。

表坂さくら

「本堂」近辺の桜はみごとですが、あまり多くはありません。紀三井寺の桜は「桜の名所百選」に選ばれていて、本数は約1500本と言われていますが、名草山全体に散らばっていますので、どこまでの範囲なのかわかりません。

 ここは桜よりも御参りの方が良いのかも知れません。巡礼ではありませんがお賽銭をなげて拝むことに致します。そして100円はらって、「宝物庫」を見せてもらうことにしました。 宝物庫はよほどの善人でなければ、到底絶えられない位に死後の世界を演出しています。すごみがあって、信心への強要とも感じられる所なのです。

 西国三十三ケ所、各礼所の観音様の絵が相応な照明で並んでいます。紀三井寺は「十一面観世音」ですが同じ観音様にも色々あること、またお寺にも各派閥があることがわかります。私以外だれもここを見に来ている人はいませんでした。一人でここを見るには少し勇気が要るところだと思いながら無事外に出ることが出来ました。

 本堂の外にでて、少し石段をのぼった所に「松下講堂」というのがあります。
松下幸之助氏が寄贈されたようですが、今はあまり手入れもされず、説明の札も無く荒れ果てていました。幸之助氏の寄贈は色々な形で和歌山の各地にありますが、どうも和歌山というところは人の好意をを大切にしないところ、という印象が強いので困ったことです。幸之助氏の晩年、和歌山には愛想をつかしていたと言う事も嘘ではないような気がします。人の好意は大切にすべきです。信心の心もすこし冷めた気がします。

本堂とさくら

 桜の下で和歌浦湾を展望しながら、ビールを少し飲んで休憩した後、「裏坂」から降りて帰ることに。この裏坂も桜を楽しむことが出来ます。桜見のムシロを敷くのはこの裏坂のほうが良いかもしれません。

 途中で先述の芭蕉の碑がここにも建てられていました。最近建てられたようです。
宗祇の庵のあったとされる場所で、宗祇と懇談している絵の銅版画らしき看板が添えられていました。

 また芭蕉の話に戻りますが、紀三井寺は芭蕉の行脚した最南端の所です。奥の細道に出立する前年(1688)の事となっています。書物によりますと、奥の細道の道のりは約2400km、期間は150日間、旅費は200両(5〜6000万円位?)。

 単純計算で一日16km。芭蕉はかなり遊び人だった様ですので、遊んで歩かなかった日もあったろうし、体調の悪い日もあったでしょうから、調子の良い日には100km位は歩いたのではないかと言れています。それほど健脚だったわけです。
また強力なスポンサーが付いていたことは確実で、いくら弟子達から月謝?をもらっていてもそれほどお金が入るわけが無い。更に芭蕉は伊賀忍者名門の家柄に育ち、名は松尾金作。いろいろ変わって忠右衛門宗房。芭蕉の雅号の時本名は桃青。
などなど。芭蕉は忍者だったという説はまんざら嘘でもないような気がします。歴史はある部分を完全に抹消し、一部分のみをディホルメして残すようです。

 そんな解釈で先述の句「見上あぐれば 桜しもうて 紀三井寺」は「紀の国では既に、争いもすぎて平穏ですよ」の意味なのかも知れません。芭蕉は「奥の細道」を世に出し(1694年四月)、同年十月「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る」を残し、その4日後大阪で亡くなっています。原因不明の下痢が続いていたとのことですが。下痢の原因は?医者でもあった芭蕉がなぜ?

 少しおもしろくなってきたところで、「その3」を終わりにさせていただきます。
あとは国道42号線をただただ歩いて帰ることにします。色々と疑問符がのこったウオーキングとなりました。トータル16,521歩でした。
                 
尾崎 英明

 
     
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