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和歌山の散歩路 その1 「片男波公園」

尾崎 英明

スポーツでこれといって出来るものが無い私にとってウオーキングだけが唯一の健康法になっています。天気の良い日は約1時間歩くことにしています。
和歌山市内のウオーキングに適した場所を中心にご紹介し、和歌山出身の方や和歌山に興味のお持ちの方で最近の情報を求めておられる方々に見て頂ければ幸甚に存じます。
写真は出来るだけ掲載致したいのですが、サイズ(容量)の関係で本文には4枚のみとし、写真の用意できる場所には、本文の中で[ ]をつけて置きます。

写真のご希望の方には、添付の形でE-Mail可能です。サイズは最大1600×1200画素で約600KBです。ご希望でしたら、サイズダウンしてお送りする事もできます。
最大サイズでは1度に1枚しかお送り出来ませんのであしからずご了承ください。

 さて、今回は和歌浦の片男波公園です。和歌川の河口で、入江になっている所に[不老橋]があります。そうです、玉津島神社の前です。本文のスタート地点です。「不老橋」は1851年、徳川治宝の命により施工完成。江戸時代としては珍しいアーチ型の石橋で、九州熊本の石工達によるものだそうです。
現在大分傷み激しく、ほとんど観光用で、実際に使用されているのは、1991年3月に完成した「あしべ橋」です。

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 この「あしべ橋」を過ぎ、「片男波公園」に向かって「あしべ通り」を歩きながら後ろを振り返ると、右に「玉津島神社」のある「高津子山」、左には「観海閣」のある[妹背山]、妹背山に渡る「三断橋」(これも徳川治宝の造営)があります。
それぞれ名前からして、万葉の世を想いだせます。これらを描いた広重の「版画絵」が、岩波書店出版の「広重六十余州名所図会」の中にあります。図書館などにあると思います。
1855年9月作となっています。観較べるとなかなか面白いものがあります。
 山部赤人の詠んだ、<若の浦に 潮満ちくれば潟を無み 葦辺をさして鶴鳴き渡る>の今は全く無くなってしまった葦辺を想像しながら、「片男波公園」に向かって、「あしべ通り」を歩いて行きます。公園の前には地図があり、主なポイントとして、「万葉館「芝生広場」「野外ステージ」[日本庭園]「いくつかの万葉歌碑」「万葉の小路」などがあります。

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 もともと片男波は細長い砂嘴で、これは和歌山の地図からもすぐわかります。
公園もこれに沿って、細長く続いています。先端に向かって左側が「和歌川」右側岸で広大な「海水浴場」となっています。

 公園の中に入ります。すぐに万葉館が現れます。この前面の芝生と松の配置はすばらしくきれいです。管理が行き届いています。万葉館では和歌浦と万葉集についての講話が時々催されています。写真の展示などもあります。2階にレストランがあり、夕日をながめながらの食事はまた格別で、席を予約して見える方も多いようです。
この万葉館の前に前述の山部赤人の万葉歌歌碑があります。
すこし進みます。ここで以外な場所に出くわします。無縁仏です。最初は何かなと思っていましたが、この公園には和歌山市の大空襲の時に亡くなられた方々を埋葬しており、その霊を弔うお墓だそうです。何千体の規模だそうです。時代は違いますが、鎌倉の段蔦を思い出させます。この和歌山の大空襲は2日間にわたり続けられ、市は全くの焼野原になりました。
私は小学校の2年生だったと思いますが、その日は家に帰らず、夜は先生などに付添われ、防空壕で一泊しました。空は赤黒く、これは夕焼けではなく、石油工場の燃え上がる炎によるものでした。恐ろしいもので、怖いと思わなかったことです。
なぜなのか今でも?です。改めて、この公園でも過去のことをおもいださせてくれます。北朝鮮の拉致問題もわが国の過去の行為と繋がっていないとは言えず、その犠牲者は現在もまだ続いているわけで、悲しいことです。

 こんなわけで、この公園もきれいな所と喜んでばかりいられないことがわかります。
さてまた前に進みます。前向き前向き、です。
野外ステージではいろいろな催しがおこなわれますが、毎年「薪能」があります。
本稿を書いている本日(10/13)の夕方も開催されているはずです。昨年私もこの「薪能」を観せてもらいました。初めて観たのですが、案外わかり易かったです。
芝生の上に座って観るのですが、中々の風情でした。

 次に現れるのはすばらしい[日本庭園]です。おそらくこの公園のなかで、一番好まれ、親しまれているのではないかと思います。紀伊半島の山々や川を石材で表現したもので、枯れ山水技法だと思うのですが。作者は判りませんが、そこにたたずむとほっとする場所です。

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 いよいよメインの「万葉の小路」です。ここからは自転車も乗ってはいけない事になっています。この小路には5つの「万葉歌碑」が配置されています。全体で6つですが、万葉館前にもあることは前にのべました。
大和からの紀伊の国への行幸は658〜724年の間に4回あり、この和歌浦には最後724年の聖武天皇の行幸の時に詠まれた和歌が10余首あり、そのうちの6首が歌碑になっているそうです。ちなみに万葉集には4500余首、紀伊の国ゆかりの歌は100余首だそうです。

 この小路の終点の歌碑は、<若の浦に 白波立ちて沖つ風 寒き暮は倭し思ほゆ>で、揮亳者 神坂次郎 とありました。
反対側の海岸は大規模の海水浴場で夏休みはごった返します。釣り場もあります。
これで今回の散歩は前半終わり、あとは引き返すことになります。

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 ながながと書き続けてしまいまいた。なにせ私、和歌山市に住んでまだ8年、間違った事を書くかも知れません。お気づきの際は下記のメールアドレスに訂正すべき点を送信して頂ければ有難く存じます。よろしくお願い申し上げます。こんども機会を頂ければ、散歩路を「和歌山城」にしようかと思っています。ここは[春のさくら]、[新緑]、[秋の紅葉]が楽しめると思います。

では今日はこの辺で失礼致します。

尾崎 英明

 
     
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