- ヨーロッパ旅のひとこま - NEW   2008年07月  川出 敏一

新シリーズ−4(通算19回) ローマの遺跡 



英国からヨ−ロッパのほぼ全土を支配したロ−マ帝国は各所にその遺跡を残しております。都ロ−マにも数多くの遺跡があり、 市街地の下には古代の遺跡が数多く眠っていて現在も発掘作業が続いています。カンピドリオの丘とパラティ−ノの丘に挟まれた谷にある最古のフォルム (都市広場)フォロ・ロマ−ノは、その名の通り古代の公衆広場としてまた周囲に住む住民の物資交換の場として使用されていました。次第に商業、経済、 政治、宗教の中心として発展し繁栄して来ましたが、紀元前283年の大火で建物の殆どが焼け落ちてしまいました。その後5世紀以降はゲルマン人の 侵入に遭って荒れ果て、ルネッサンス時代には焼け残った石材などが運び出されて次第に廃墟と化し埋もれてしまいました。現在の姿は1803年以降に 発掘されたものであり、廃墟の姿そのままに保存されています。

入場料を支払って中に入ると、一面の遺跡群が広がります。随所に転がっている茶・白・黒の斑模様の大理石柱は上品な美しさを見せてくれます。 今回は家内にご案内させて頂きます。

マクセンティウス帝のバジリカ、大変に大きな建物です。バジリカとは商業取引や裁判など宗教儀式とは無関係の集会に使用された公共建築物です。

アントニヌスとファスティ−ナの神殿、5賢帝の一人アントニヌス・ピウスが死後神化された妻ファウスティナの為に建立したものです。 屋根飾りに特徴があり、比較的往時の面影を残している感じです。

双子の神カスト−レとポル−チェの神殿、紀元前496年にレギルス湖畔でロ−マ人がエトルリア人と戦ったさい、 カスト−レとポル−チェという双子の兄弟の助けで勝利を収めたのを記念して造られたものです。88本あった円柱のうち現在残っているのは3本だけです。

ティトウス帝の凱旋門、皇帝のエルサレム占領(70年)を記念して彼の死後建てられたものです。ティトウス帝の凱旋門の横の坂を登ると、 パラティ−ノの丘にはいります。フォロ・ロマ−ノの南に繋がる広い丘陵で古代ロ−マ発祥の地であり、皇帝や貴族達権力者の高級住宅地でありました。 彼らはこの丘を下りてフォロ・ロマ−ノに通勤していたわけです。

パラティ−ノの丘に上がりますと、そこは全体が石造りの大規模な廃墟となっています。多くの皇帝・貴族達が建てた壮大な宮殿や邸宅は、 今や栄華の夢の跡となっています。フォロ・ロマ−ノの向かいに幾つかの皇帝達のフォロ(広場)が並んでいます。初めにここにフォロを建設したのは ユリウス・カエサルですがその後帝政時代に入りアウグストゥス帝を始め次々と自分のフォロを建てたため総称してフォ−リ・インペリア−ノと云われています。 フォロ・トライア−ノとフォロ・アウグストゥスの2つが比較的良く残されています。

フォロ・トライア−ノ、トライヤヌスの市場では地中海世界の産物の取引が行われました。3階建の大きな市場で店舗の数は150以上あったと 云われています。AD110年頃の物です

フォロ・アウグストゥス、BC42年頃に復讐神マルスの神殿として建てられたものです。アウグストゥスがフィリッピの戦いでカエサルを 暗殺したブル−タスを打ち破った戦勝の記念に造られたものです。

コロッセオはフォロ・ロマ−ノの東に位置する巨大な円形競技場跡で長径188m・短径150m・高さ48mの壮大な楕円形をなしています。

コロッセオの内部は5万人を収容する観客席が放射状に配置されています。競技や演技が行われたアレ−ナと呼ばれる舞台の規模だけで 長径86m・短径54mあり、板が張られたその下には器具の保管室や猛獣を入れる部屋が並んでいました。アレ−ナでは人間対猛獣、剣闘士同士の血生 臭い殺し合いが行われましたが、剣闘士は奴隷や犯罪人、キリスト教徒でありました。

観光都市ロ−マは遺跡の宝庫でもあります。カラカラ浴場跡、アッピア旧街道とその周辺のカタコンベなど地図を片手に訪れてみては如何でしょうか。

平成20年7月記


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